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デリーの戦い (1757年) : ウィキペディア日本語版
デリーの戦い (1757年)[でりーのたたかい]

デリーの戦い(デリーのたたかい、英語:Battle of Delhi)は、1757年8月11日から8月30日までインドデリーにおいて、マラーター王国アフガン勢力のローヒラー族の間で行われた戦闘。
==戦闘に至る経緯==
1756年12月アフガンアフマド・シャー・ドゥッラーニーマラーターに敵対するムガル帝国の宮廷内勢力の要請を受け、その領土に向けて遠征した〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.218〕。1757年1月にアフマド・シャーはその首都デリーを占領し、2月には略奪と殺戮を行い、マトゥラーヴリンダーヴァンでも行った。4月に彼は撤退し(その帰途、シク教徒の聖地であるアムリトサル黄金寺院を破壊した)、皇帝アーラムギール2世は帝位を保ったが、ローヒラー族ナジーブ・ハーンが宮廷の実権を握った〔。
このアフガン軍の行動に対し、マラーター王国宰相バーラージー・バージー・ラーオはすぐに弟ラグナート・ラーオをデリーに送った〔。また、その過程でホールカル家の当主マルハール・ラーオ・ホールカルとも合流し、その数は100,000人に上った。
同年7月末、マラーター軍はデリーへ到着し、デリー城の反対側、ジャムナー川の川岸に陣を張った〔Advanced Study in the History of Modern India 1707-1813 - Jaswant Lal Mehta - Google Books 〕。ラグナート・ラーオ率いるマラーターの主力軍はカルナールアンバーラーに近い、デリーからおよそ30キロ離れた離れた地域に布陣した〔。
一方、ナジーブ・ハーンは武将クトゥブ・シャームッラー・アマーン・ハーンとともにデリー城に籠城し、マラーターがデリーに侵入しないように警戒していた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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